奥山睦さん2

(2008年4月のザイニューWebでの連載を再構成したもの。奥山さんの経歴等も当時のものです)

 

いつまで兵隊やってるんだ

廿 テレビ系は長時間労働だしハードだって聞きますけど。

奥山 そうなんです。8カ月間、一日も休みなしってときがあったんですね。海外ロケも多かったので、身体が常に時差ぼけ状態で累積疲労がたまっていた。そしたら、浜崎あゆみと同じ突発性難聴になって、半年間右耳が聞こえなくなっちゃったんです。

 

廿 聞こえるようになったんですか?

奥山 今は聞こえますけど、ちょっと右が聞き取りにくいかな。そのときに、働き方を考えちゃった。初めて有給休暇をもらって、1週間ぐらい自宅に戻ったんですね。「これからどうするか考えてるんだけど」と父親に言ったら、「お前いつまで兵隊やってるんだ。どうせやるんだったら将校になって仕事をしろ」。

廿 おおー、カッコいい。

奥山 弱ってる娘にそういうことを言う父親っていないと思うんだけど(笑)。私自身は、それまで誰かに雇われることしか考えてなかった。

 

廿 普通の家庭なら、「もっと安定したところに勤めたら?」とか言いそうですよね。

奥山 ですよね。でもそれで目からうろこ、自分の会社を作ることにして、父親が弁護士でしたから登記の手続きとかは頼んだんです。会社に在籍中の3月14日に登記が完了、3月31日に辞めて、4月1日から営業。インターバルは一日もなし。

 

廿 そこで海外放浪とか入れそうなものじゃないですか。

奥山 会社をぶっちぎりで辞めちゃったものですから、まだ1クール13回というテレビの仕事が半年分残ってたんですね。それが終わるまでは委託契約という形で。まあ、仕事がある状態で会社をスタートできたので、恵まれた状況でした。

 

 こうして、「卒業したらすぐ結婚したい、働くなんて考えなかった」奥山さんは、ハードな仕事で実力をつける雇用期を経て、ついに会社経営者になった。

 

子育て期、仕事のアウトソーシングを試行錯誤

廿 奥山さんの会社は、デザイン会社なんですか?

奥山 編集プロダクションです。企画して、執筆して、DTPもやる。ただ、96年ぐらいからホームページの制作も始めたんです。Webのほうが98年ぐらいから多くなってきて、今の割合は、Webの制作が約7割、書籍系など紙媒体の制作が3割ぐらい。

廿 Web制作が時流に乗っていったわけですね。

 

奥山 出身が美大だからデザインしてると思われがちなんですけど、企画書書いたりレギュラーの執筆を持っていたり、私自身が今やっているのは、8割方書く仕事ですね。

廿 …意外。

奥山 デザインに関しては、私はお客さんと打ち合わせをして方向性を決め、そこからは社内に3人いる若手のデザイナーに任せています。社内のデザイナーだけでまかなえないときは、在宅ワーカーさんにお願いしています。

 

廿 ということは、社内には今何人?

奥山 デザイナー3人、事務が2人、それに私と夫。夫は一応役員になってるんです。

 

廿 もともと、どういうふうに会社を始められてるんですか?

奥山 起業したのは1990年、結構古いんですよ。パソコンもインターネットも全然普及してない時代ですね。起業した翌年に結婚、その次の年に出産。まだ保育園に延長保育の制度もないころで、仕事時間の調整がとても難しかった。
 その翌年、1994年ごろからパソコンやインターネットを使い始めたんですね。そうすると、データを移動させて残りの仕事は家でやろうという発想になったわけです。それがインターネット、パソコン、在宅ワーク…とかを意識し始めたきっかけですね。

 

廿 時代的にも、在宅ワークっていう動きが最初に起きたころですね。

奥山 そうです。ちょうどそのころが自分の子育て期と重なったんです。PRや書籍の編集の仕事をアウトソースする仕組みを作ろうと試行錯誤しながら、在宅ワーカーの方々と一緒に仕事をするようになったわけです。プレイングマネジャーをやるにしても、子供が小さいときは限界があるでしょう。

廿 ありますよね。

 

奥山 自分が動けない分、なんとかワークシェアして仕事をしていこうという、それがそもそもの発想です。

 

パソコンが普及してない

奥山 98年~99年ぐらいでしたっけね、SOHOブーム。あの当時は、パソコンって生活を劇的に変えるすごいものだっていう期待感があったと思うんですよね。

廿 パソコンを使えないと恥ずかしい、みたいな。うちの両親でさえパソコンを習いに行きましたから。でもこの前、大学で経営学演習のスクーリングがあったんです。グループごとにプレゼン資料作って発表するんですけど、メンバーの中の若い人たちはパソコンを使ってないんですよ。

 

奥山 え、なんで?

廿 ケータイがあるから、ケータイでメールができるから。

奥山 ああ、なるほど。むしろそうなのかもしれない。

廿 仕事をしている男の人が2人いて、私含めてその3人はパワーポイント(PPT)を使うんですけど、あと2人は「家にパソコンはあるけど使ってない」って。「PDFに変換して送るから」って言ったんですけど、添付ファイル送受信の経験がないし、興味がない。資料作成は3名にお任せって感じだったんです。

 

 資料は、手書きでも簡単なワープロ打ちでもOKという演習だった。
 PPT以外プレゼン資料作成はありえない!とこだわった人(彼は営業職なのだ、たぶん)と、パソコン自体に縁遠い人たちのギャップは大きかった。私自身はPPTにさほど情熱がなくて、「ワードでざっと入力」を推したので、中間ぐらいの立場かな。

 

 でも今は、ふだんの講義でも講師がPPT資料を配布してほとんど板書しないことがある。学生はノートを取らなくてすみ、PPTを見ながら講師の話を聞き、ちょっと手書きで補足を記入するぐらいだ。
 行き届いた講師になると、自分のホームページにPPTファイルをまとめてアップしておいてくれる。だから講義を休んだ分は「誰かにノートを借りる」とかしなくても、ファイルをダウンロードして目を通しておけばいい。…パソコンが使えれば。

 

廿 かえってパソコンはあのころに比べて全然、普及すると思ったら普及しない。
 就業体験では、掲示板にログイン自体できなかった方がいたり、掲示板は毎日見に行くものだとか、自分が立てたスレッドじゃなくても「New!」ってマークがついていたら見るとか…を知らない方が結構いらっしゃったんです。テープ起こしの人が集まるメーリングリストを紹介するんですけど、メーリングリストが何か知らない人も結構いる。

奥山 一時期はなんでもメーリングリストになってたけど、今はそうでもないのかもしれないですね。

 

 巨大すぎる2ちゃんねるやmixiなど閉じたSNSを例外として、今はネット上の掲示板も少ない。掲示板になじみのない人がいるのも無理からぬこと。初回のセミナーで「掲示板とは何か」「掲示板の利用方法」などまでレクチャーするべきだったのか。私自身の反省点。だけど、ますますテープ起こし本体の話に時間が割けなくなる。

 

人生の正午は思い悩む時期

廿 というわけで、自分が人としゃべりたいのにどうしたらいいかっていうことと、講師系の仕事は好きだけど迷いが多いのと、2本立てで困ってるんです。

奥山 廿さん、今おいくつでしたっけ?

廿 43です。

奥山 ちょうどいろいろと迷う時期ではありますよね、40歳ぐらいから。

廿 そうなんですかね。

 

奥山 ユングがね、40歳は人生の正午だと。一日のサイクルでいうと、ちょうど正午の時で、そこで思い悩んだり迷ったりするというのは、実は当たり前の感情なんだというようなことを言っていますね。

廿 ああ…なるほど。女性の厄年は30代で終わっちゃうけど、男性の厄年は40ぐらいにありますよね。でも女性もそこらへんで、なんだかうまくいかない、いろいろなことが。

 

奥山 いろいろなことが変わってきますよね。自分の身体の細かい変化とか、子供がそれなりに大きくなってだんだん手が掛からなくなったりとか。

廿 逆に親の問題が出てきたり。今まで子供が小さくて、親っていうのは育児を助けてくれるものだと思っていたら。

奥山 そう、介護のほうが大変になってきたり。夫とかも、その近辺になると会社のポジションとかが、ある程度最終的にはこうなるかなっていうのが見えてきたりとか。変化していく時期ですから、40代前半っていろいろ考えますよね。

 

廿 奥山さんは、もうそこは脱出したという実感がおありになりますか?

奥山 そうですね。やっぱり一番の転機だったのは30代中盤ぐらいかな。子育ても苦しかったし、会社の経営も苦しかったし、いろんな意味で一番苦しかったですね。

廿 日本の景気が悪かったころですね。そうすると会社は楽じゃないわけですね。

 

奥山 契約が途中で突然打ち切られたりとか、大変でしたよ。数万円作るために、自分の服やバッグを質屋に入れて。社員を雇用していかなきゃいけませんからね。

廿 会社っていうのはそれが恐ろしいですよね。人を雇って家賃を払っているから。

奥山 あっという間に何百万っていう負債を抱えちゃいますね。

 

地域に救ってもらった

奥山 子供が2、3歳ぐらいになるころまでは、本当に苦しかったですね。会社の経営はうまくいかないし、夫の単身赴任があったり、毎日がどうしようと。私の場合、それを救ってくれたのが地域だったんですね。

廿 地域っていうと、仕事を発注してくれたりですか?

 

奥山 まず当面の運転資金が回らなくなった、どうしようっていうのがあって。バブル経済崩壊のとき、売上げが半減しちゃったんです。私自身はまだ子供が小さくて、当時延長保育もなかったですから、働ける時間も限られている。四面楚歌ですよね。
 銀行を回ったんですけど、まだ30代で若いし、女性経営者も当時少ないから信用がない。どこの都市銀行でも断られて、最後にたまたま、小規模事業主向けの融資制度があるっていう大田区報の記事を見て、相談窓口に行ったんです。うちの会社、前年まで赤字は出してなかったんですね。だから、事業計画書を見た担当者がこれなら大丈夫って言ってくれて、2週間ぐらいで融資が通ったんです。

 

廿 貸してくれたところは…。

奥山 地元の信金です。低金利で融資を受けられて、それでなんとか生きながらえたんです。そのときからかな、地域に目を向け始めたのは。私は地域に救ってもらったし、地域に役に立てることがあったら何かやっていきたいなと。

 

廿 じゃあ、今地域のお仕事をいろいろ引き受けていらっしゃるのは、そこからたどれるわけですね。

奥山 そうです、ルーツはそこです。

 

 地域に恩返しをと思ったら、思うだけですまさない、本当にやるのが奥山さんのすごいところで、大田区の審議会や協議会の委員を歴任し、大田区から「特別功労者」表彰を受けている。
 ご著書も『メイド・イン・大田区』『大田区スタイル』、そして今年3月の新刊も大田区を取り上げている(この本については連載後半で紹介)。